AKB48 VS SMAP (グループアイドル作曲論) 其の参

夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ夕暮れ
夕暮れ夕暮れ…
 映画『家族ゲーム』の中で宮川一朗太さん演じる思春期真っただ中の「僕」がノートいっぱいに「夕暮れ」という文字を書くシーンがありますが、まさにアイドルとは夕暮れなのです。
 唐突ですいません。本日はまさに今が旬の「AKB48」について考えてみたいと思います。といっても、コアなファンではありませんので、ディープなトコまでは逝けません、あしからず。そして、今回は過去2回とは違って作曲に限定することなく全体的に見ていきたいと思います。
 さて、冒頭でも触れました「アイドルとは夕暮れである。」という言葉ですが、要はすべてにおいて「発展途中」であることが必要だということです。そう、「夜の闇」それはあまりにも完成されすぎていますから。
 まず、グループのブレークに伴い、各メンバーの輪郭が次第に浮かび上がるわけですが、これには①露出による見る側の認識の変化②見られることによる(自覚することによる)当人の変化…この2つの効果により「グループの熟成過程」を「共有」することになります。なので「最中」(これが途中ということになります。)であることが大切。
 次にあえて「歌詞」に触れますが、これも「途中」であるためには絶対に成就してはなりません。だから恋愛ならば「片思い」や「秘めたる想い」は当然のこと、ギリギリ攻めても「告白したけど…結果は如何に」といったトコまででしょう。また「ポジティブ思考」の中にも一抹のネガティブを、逆にネガティブな中にも一筋の希望を匂わせることが必須となってきます。
 そして作曲ですが、これも歌詞同様、メジャーコード主体の曲でも部分的にマイナーコードを入れる、逆にマイナーコード主体の曲でも瞬間的にメジャーコートを用いる…これだけで曲の見栄えが3割方アップします。大事なことなので(そして意外と疎かになっているので)繰り返し書かせていただきますが、明るい曲調だからメジャーコードだけで作るのは御法度、もちろん暗い曲調をマイナーコードだけで作るのもです。
 あとは、いくつ引き出しを作れるかですが、例えば今回の新曲「エブリディ・カチューシャ」は完全に「ポニーテールとシュシュ」と同じ引き出しです。で、この「ポニー〜」も「言い訳Maybe」と同じ引き出しから作られてますが、「エブリ〜」は明らかに焼き直し具合が不足している感が否めません。これは作曲家だけの問題ではなく、作詞やビジュアルコンセプトすべてを含めて「手堅く行き過ぎた」結果だと思います。せっかく勢いのある今なんだから、引き出しを増やすとか、同じ引き出しからでも若干悪ノリしてみるとか、そんなアクションが欲しかった…。ちなみに「ビギナー」も「リバー」と同じ引き出しでしたが、同じ引き出し内でありながら棲み分けができていてなかなか良いコントロールの仕方だったと思います。
 よく商店街とかで安くインストにアレンジされた(敬意を込めて)J−POPアイドルの曲が流れてますが、あれなんか、よく聴くとその曲が実は良く練られているなと感心してしまうことが多々あります。
 とここまで書いて、ほとんどAKBに触れていないことに気づきました。なもんで最後は最近プロペラが一押しのAKBメンバーを紹介します。それは…「横山由依」さん。
 何がいいって彼女が話す「京都弁」が新鮮。都会育ちのプロペラには方言がありませんからね(認識できてないだけかも知れませんが。)。もう、鷲掴みですね(←バカッ) 
 でも何かイイよね、京都弁って…手のひらで転がされている感じが(笑)
 というわけでまとまりませんが、次回はSMAP編でお会いしましょう。